◎争い
昨今、ニュースを見ておりますと、戦争・紛争の様子が毎日のように報道されています。それは特定の地域・国家にとどまらず、世界中で生じています。もちろん日本においても他人事ではないなあと感じています。ついつい平和慣れしてしまっている私たちですが、こういった報道を我が事として見ていくことの大切さも感じます。そもそも、何故このように人々は争うのでしょうか。
◎争いの原因
戦争・内紛の背景は多岐にわたると思います。経済問題、領土の争いや過去の戦争の因縁などもありますし、宗教もその原因として挙げられます。しかし、どの要因も、その根本にあるのは「人間」です。自国を守りたい、優位に立ちたいという思いがあるのだと思います。宗教もその教え自体が問題なのではなく、宗教を理由に対立し争うのは人間です。
私たちの日常においても、戦争や内紛とのレベルは違えど、その構図は同じです。自分を守ろう、他の人よりも優位にありたいと思う心が対立・争いの原因となると思います。
その争いのタネとなるのは、人間の「自己中心性」です。自分の都合だけで物事を見るから、それが衝突の原因となっていく。これは容易に想像ができるのではないでしょうか。しかし、その一方で、自己中心的な考えから離れることの難しさも感じます。どうしても私たちは、自分中心です。それもそのはずで、自分の目で見て、自分の頭で考え、自分の手足で行動する。私が私から離れることがいかに難しいかが分かります。
◎怨みと仏教
「怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない」
これはお釈迦様のお言葉です。自己中心的な存在である人間同士は、どうしても争ってしまいます。自分が幸せになりたい。自国を守りたい…。だれしもが思ってしまうことであり、この思い自体は決して否定することはできないと思います。それよりも意識したいのは、先のお釈迦様の言葉です。争いの中で、相手を怨むことは多くあるでしょう。腹を立てることもよくあります。しかし、その怨みや腹立ちを相手に向けて攻撃的になると、その争いは決してなくなることはありません。
争いを断ち切るには、相手を怨まないようにしなければならないのです。しかし、これも容易ではないでしょう。自己中心性から逃れられない私たちです。親鸞聖人も「( 私たちは) 欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、多くひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえず」とおっしゃっています。命終えるそのときまで、私たちの自己中心的な心は消えないというのです。
◎私たちの歩む道
そのような私たちにとって大切なことは、常に我が身を意識するということだと思います。自分の怒りや腹立ちという感情に対して、即座に行動するのではなく、一度立ち止まることが必要ではないでしょうか。それは、自己中心的な我が身であることに気付くことができているからこそのブレーキであり、仏教の教えに生きるということです。
それと同時に、「自分は絶対に正しい」という思いも非常に危ういことが分かります。自己中心的な善は、決して普遍的な善ではありません。むしろ悪であることが多いでしょう。常にこのような視点でいることが、争いを減らしていく道ではないでしょうか。我が身を知り、お互いを尊重した対話こそが重要だと教えてくれるのが仏教の教えだと思います。
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